わが北鎌尾根、剱岳よ おちこちの山   楽山社

第1部 北鎌讃歌

   幻の北鎌尾根
                        篠宮 良幸



  夜汽車の回想

 僕の悪いクセだ。旅行に出る時、かならず仕事を持って出る。午
前零時をとうに過ぎた夜行列車の中で、いま、原稿を書いている。
 いままで語り合っていた坪山キャプテンも目をつぶった。相田兄
は早くから、眠ろうと努めているかのよう。坪山夫人は、さっさと
座席の背后の床に寝袋を敷き、頭をつっこんで眠ってしまった。だ
いぶ山オンナらしさが徹底してきた。そして、今回初メンバー、中
国は雲南省昆明から来た息子の雪来少年も、一しきり缶ビールを
                (しゆえらい)
飲んだ後、寝入っている。
 夜行列車は甲州から信州道をひた走る。急行列車だが、車両はむ
かしの特急並みに座席が広くゆったりとして、シートもいい。
 先ほどの新宿駅でのさんざめきが頭を横切る。いつもの工藤、大
隅両君は今回見送りにこられなかったが、警視庁のあの淳朴な樋口
兄が、缶ビールとともに義理堅く顔をみせてくれた。剣道五段のス
マートな猛者。そして妻の喬喬と娘の薇薇、北京からきた僕の家
           (ちぁおちぁお) (うぃうぃ)
族だ。
 それにしても、この夜行列車の電灯はどうしたことか、夜が更け
て皆が寝静まってからもいつ迄も明るかった。執筆に集中できない
まま、今回の山行きの目標である「北鎌」のことを億った。



  一万日の時間流を越えて

 北鎌−−キタカマ−−北鎌尾根。槍ヶ岳頂上へ突き上げる北の稜
線が、今回のわれわれのチームの正面目標である。昨年も、真下迄
到達しながら天候のため果たせなかった”年来の目標”でもあった。
 だが−−僕の耳にこびりついた「キタカマ」への登高は、僕個人
としては遠い回想への旅立ちの意味があった。それはキザかも知れ
ないが、僕にとっての山登りのイタ・セクスアリス、解放への旅
              ●井
だった。そして一つの友情開花の道程でもあった。

 何事にも怠惰な僕が、「北鎌」をはじめて聞き知ったのは、遙か
むかし。およそ一万日の時間流を経て、いまベールを脱ごうとして
いる。
 頗るつきの、遠く深い記憶の中に、僕にとっての「北鎌」はあっ
(909C:ハ)
た。渦巻く霧に包まれ、峻嶮で孤高のイメージを保って天空に超然
           (9BD3:ケン)
と屹立していた。決して近寄ることもないであろう、ましてや登攀
(キツリツ)
などはとてもとてもと、僕は考えていた。そんな深い心象風景を僕
にもたらした一人の好漢と出遭ったのは、三十年近い昔のことだ。
 −−風雨停滞、ここでお赦しを得て、Aと僕との係わりについて
述べる時間を頂戴したい。
 Aと僕との出会いは、第一次安保闘争後の昭和三十年代後半だっ
た。
 およそ三十年前、二人はまだ若く、十分に青年だった。異色の解
逅だった。エリート自衛官とアナーキー気味の雑誌記者。少なくと
(E790:コウ:邂逅)
も僕はモラリストという言葉に抵抗して生きた。反面、謙虚で質朴、
なによりも誠実なAの人柄に魅かれた。(惹かれる)

 初めの頃、二人はおずおずとつき合った。濁り酒を汲み、だれも
がやる流儀で、個人体験談を交換するジャブを交わした。僕はAの
話の中でも、特に少年期体験の厳しさに耳を傾けた。互いに酒がそ
う弱くはなかったこと、また酒に徹底してこだわる点が、交際に深
まりを持たせていった。
 人は酒席での話を、とかく軽んじる風がある。だが、Aと僕は、
酒席での話、軽い約束事をこそ、翌朝そして後日最重要視すること
で意見が一致していた。それは戯れ言ではなかった。つまるところ
決してあの酒鬼(ジュウグイ)ではなかったのだ。
 交際の始りのころ、つき合いに伴う若干の職業上の附加価値的メ
リットを計算していなかった、といったら嘘になるだろう。しかし
そんな付け刃が、なんで長時間、メッキが剥がれずにいるだろうか。
やはりこれは、波長が合うかどうかの問題なのだろうか。酒徒のつ
き合いというものは。琴線を共鳴させる情感の基盤(内部)の問題
には違いないが。
 新橋、新宿、浅草、秋葉原・・・・遠く松戸まで足を延ばした。大塚
駅南口の「花紋」から中野駅北口の「千代」に定着した。定泊地
「千代」は山行の出撃地ともなり、帰投港ともなった。首都にお
けるわれわれの遊弋圏は、居住地の移転、酒徒メイトの増加で自在
        (9C54:ヨク)
に広がり、加えて酒仙たちの出身故郷への訪問もおこなわれた。
 この交流の中で、かなり初期の段階に、Aの口から「キタカマ」
の呼称を、僕は初めて聴いたのだ。それから思い出したように、何
度も耳にした。ある時は「北鎌尾根」となり、またある時は聞き方
に集中できずに「キタカ・・・・」で終った。
 片や純粋培養されてきた国防畑の職業エリート、片や自然体で生
きるといえば恰好いいが、人生を斜に構えた雑草人生の居直り野郎。
話題は政治・社会問題よりも、人生問題の方に熱を帯びた。
この酒徒仲間に、相田兄(相ちゃん)や白川さん(長老)もいた。
 高柳さん、西村さん、工藤、渡部、飯島、斎藤、町田・・・・多くの
仲間がいたっけ。
 そして、かれら酒徒仲間を、いつのまにか山岳宗徒に仕立てて
いったのがAである。みんなから愛され、信頼されている好漢坪
山晃三氏こそその人である。かれは当然のように山行きの中心人物
となり、北アルプス北辺にあって槍・穂高と比肩される剱岳へ、二十
年余におよぶ集中登山をつづける原動力となった。
 約二十年間というもの、坪山キャプテン(とよぶ)、白川長老そ
してぼくの三人は、憑かれたように岩と雪の殿堂剱岳に登りつづけ、
奥深いツルギ山域で遊びたわむれた。この天上界と下界をいきかう
交わりの中で、坪山氏の語るキタカマのイメージは、深くふかく僕
の心の水底へと沈みつづけ、憧れと恐怖をないまぜる”幻しの山”
の心象を描いていった。
 いつしか僕は、人を拒んでよせつけないこの魔の山に若き日の坪
山氏が単独行で挑み、死の危険にいのちをさらしたのは、ある思い
切りのため、一つの青春の賭けをしたのだと思い込むようになって
いた。国立大を卒えて郷里の県庁上級職に決ったのち、なお自衛隊
幹部学校へと軌道修正した真意は? その選択と決断が結果として、
この友の人間形成にどのような光と影を投じていったのか。それは
かれ自身の問題であったとしても、かれが生命の危険と未来を賭け
たキタカマは僕の重大関心事だった。ぼく自信の心底が深く係わり
合っているという憶いを打ち消しえないのだった。

  決別の旅へ

 遠い日のたゆたう記憶の底から、厚い霧の帳を引き上げる。
 ナイーブそのものの友の心のひだに入る。琴線にふれる。
 乳白色の霧が烈しく変幻自在に舞う。
 キタカマの山峡に入る。尾根にとりつく。はい松、岩、岩、岩。
 前進する。攀じる。絶壁をへつる。跳ぶ。
 仰ぐ。喘ぐ。深呼吸をする。目をつぶる。凭れる。風が鳴る。過
ぎる。
 瞑想する。静寂。合一する。自然と、友と。
 同調する。浮上する。充ちる。虚空にひびく音のない楽の音。歓
喜−−。

 ぼくら三人はこの二十年余というもの、まちがいなく剱岳宗徒で
あった。八千日の時間帯を、毎年のようにツルギに参内した修験者
にとって、この聖域は充分、浄福の園そのものであった。トリオの
結束と献身は祝福され、恩寵はすでに垂りていたという実感があっ
た。
 そしていま僕は、ツルギから一歩外へ踏みだそうとしている。北
鎌尾根へ向けて。それは哀しみを伴う決別の旅でもあった。同時に、
より広い大自然の懐へむかう自己解放の第一歩であった。

  湯俣・晴嵐荘から分け入る

 昭和六十三年八月二十七日(土)朝、松本経由、なつかしの信濃
大町駅着。どうやら仕上げた原稿を、開いたばかりの駅売店で切手
を買い、速達で投函した。ヤレヤレ。一時間ほど、時間つぶしのた
め、駅のプラットホームの木製ベンチに横になったが眠れない。
 八時頃、駅前からタクシーに乗り、東京電力、高瀬川総合制御所
に向かう。朝の時間つぶしは勿体なかったが、音に名高き高瀬川ダ
ムを”見学”させて貰う都合がありました。
 この第5高瀬川発電所工事を取材した曽野綾子さんのルポルター
ジュ記事を、グラフ雑誌で見たことがある。地底の巨石を砕き、掘
削し、オーストラリア大陸の露天掘りで活躍しているような五十ト
ン級の超大型トラックが走り回っていた。
 自然石を積んで堰提を作るロックフィル式ダムで、発電のため一
度落とした水を、電力が遊んでいる夜間に下流ダムから引き上げて
有効利用する方式。上高地下流の梓川水系ダムもこの方式。さすが
の”暴れ川”も最新式ダムの治水効果で最近は大人しくなっている。
 高瀬川総合制御所からPR担当課長さんじきじきの案内で、マイ
クロバスは出発した。さあもうすぐ、一年ぶりの山仲間でピアニス
トの、大阪の原田祥子さんと逢えるぞ。原田さんとは七年前、剱岳
の池の平小屋で、坪山キャプテン、白川長老と共にお会いして以来、
毎年ご一緒しているわが枢要メンバー。前夜は、七倉山荘に宿泊し
たことを、担当課長が電話で確認して下さった。
 マイクロバスは七倉山荘の前を通り過ぎ、一般車通行止めの長い
隧道に入った。その途中で、左側の岩窓から一つの調整池の広場に
出た。「あれ?」と担当課長。約束の場所に、原田さんがいない。
その先の長ーい隧道の中程まで歩いて、何度か呼びかけてみた。す
ばらしい共鳴音がそのたびに大反響し、いつ迄も尾を引いた。応答
はなかった。
 仕方なく、先へと走らせると、暗く長い隧道をぬけたもっと先を
歩く姿をやっと捕捉できた。
 それにしても乗物は楽だ。ジグザグの上り三十分はかかる堰提も
問題ではない。さらに炎天下の単調な高瀬ダムの測道を、歩いたら
(みんなが歩いている!)これは大変なことだ。幸いわれわれは東
沢まで乗せて貰った。かつてダム工事中、東電はトラックで登山者
の荷物のみの運搬をサービスしていたらしいが、これは実費をとっ
てでも、今度はぜひ人・物一緒の運搬を行って欲しいものだ。
 登山者にとって高瀬渓谷の奥で”たった一つのベース”といわれ
る湯俣(川)と水俣(川)の出合いが湯俣温泉。七倉から徒歩6時
間かかる。(物書きにはいいだろうな・・。いや環境が良すぎて、却って書
けないだろうな・・)
 湯俣温泉には露天風呂もある。湯俣川の少し上流にある「湯俣の
地獄」は、河底から噴き出す温泉があちこちに小さな噴泉塔を造り、
硫黄の黄、藍、赤の色どりが綺麗らしい。
 さき程、車道が尽きた処で、礼を言ってクルマと別れ、それから
もずっと右岸の歩き易い道を、広く白い広河原に沿って辿ってきっ
た。小丘の山裾にとりつき、すぐ下ったところで右へ、ゆるやかな
沢の小さな橋を渡るのが正しい。われわれは暫時、階段状の小道を
左に巻いて往復10分程のロスをした。
 湯俣までの歩き易い山道は、気持ちよい森林浴コースといったと
こ。その途中、右手前方の谷間越えに、北鎌尾根と槍の穂先も見え
たらしい。
 近未来に実施をぜひ期待したい。東電の登山者運送サービスのこ
(近い将来)
とを、僕はしきりに考えた。「これは画期的なことだ。さびれた湯
俣に活を入れ、荒れてきた北鎌をめざす天上沢ルートを、そして今
は廃道となった千丈沢ルート、宮田新道(裏銀座ルートの槍直下に近
い千丈沢乗越しにでる)への強力なテコ入れとなること必定だ!」
 それにしても晴嵐荘で飲んだ缶ビールの味気無かったこと。汗も
かかなかったせいか。ここのご夫婦は山へは入らないとのことだ。

  貧乏沢の苦い想い

 高瀬川は湯俣で、左の水俣川、右へ湯俣川を分けてさらに遡る。
水俣川を1時間30分遡行すると「千天出合い」。ここから左へ天上
沢、右へ千丈沢を分けて、その真ん中に今回の目標、北鎌尾根が走
り、北から槍の直上へ突き上げる。天上沢は名の通りまさに天に上
る沢であり、千丈万丈の深く広い沢筋だ。
 さらにわれわれのルート、天上沢をそのままツメ切ると、約6時
間で表銀座ルートの水俣乗越に辿りつくことになる。
 この天上沢を先天出合いから2時間遡行した地点に、左から貧乏
沢が下りてくる。大天井ヒュッテから約30分、喜作新道(表銀座
ルート)斜面を急降下する悪沢だ。
 この合流地点から20分程遡った地点が北鎌沢出合い。そして北鎌
沢右俣は北鎌尾根の中間点のコルに突き上げている。この北鎌尾根
は北アルプスの数ある中でも、第一級の縦走ルートに入っていると
いう。このルートこそ、永年、僕の深層心理にとり憑き、何等かの
作用を果たしてきた代物なのだ。
 一昨年、天候不順が主な理由でわがチームは喜作新道から貧乏沢
を降下、北鎌沢出合い迄到達しながら、時間切れで北鎌尾根を断念
した。苦難の末、天上沢を直登し水俣乗越しに至り、ヒュッテ大槍、
南岳避難小屋に泊まり、雨中の大キレット踏破を土産にした。その
節、貧乏沢の下り、しんがりをつとめながらで浮石に乗ってとばさ
れ、あわや滝壺へ転落の一歩前という大失策をやらかした。右手中
・薬を手ひどく突き指をしてしまった。

  キャプテンのケガ

 湯俣まで体力を温存した僕は、気楽な気持で水俣川に入った。右
方の湯俣川沿いの岩肌は赤茶け、恐ろしい地獄の山の様相だ。なる
ほど、硫黄岳、そして赤岳という名称がふさわしい。
 水俣川から天上沢に遡るルートは、人もほとんど入らぬようで荒
れていたが、辿ることはできる。小雨上りの濡れた背丈ほどの高さ
の草ヤブこぎ、ちょっと嫌な崖っぷちのヘツリ、おおむね快適な谷
筋の道を堅実に、ピッチを上げて遡った。
 キャプテンが、ちょっとした断崖のヘツリで行き詰まっていた。
上を巻くルートを探して、手を貸して引き上げる。
 右岸から左岸へ渡る(※川上から川下を見て、右側が右岸)。
 いよいよ千丈沢とわかれ、天上沢を遡る。(この辺り、記憶があま
り無い)。ひどくイカレた大吊橋を右岸に渡る。途中から三十度に
傾斜している板を踏み、上の鋼鉄線を掴んで軽業まがい。あと二、
三年で寿命が尽きそう。
 つづけて、狭くなった天上沢の激流に仮設された丸木(橋)を、
ヨイヨイ、調子をとって渡った。落ちれば落ちた迄と思ったが、皆
は靴を脱いで渉る。ここの吊橋は跡形もなかった。
 この激流に、最後の徒渉者・雪来のリュックからキャラバン
シューズの片われが落下するのを目撃した。真先に渡って手を貸し
ていた僕は大声を上げたが、激流の瀬音に消されてまだ対岸に近い
雪来の耳には届かない。だが敏感な彼は、事件にすぐ気がついた。
 激流のある部分は岩走り、随所に奔流となって大石と大石の間を
流麗に落ち、瀧となり、その下は径四メートルほどの渦巻く渕を
作っていた。
 あの奔流の勢いでは、片われは、もうずっと先の方に流されてし
まったに違いない。「諦めよう!」と僕はいった。「靴下を重ね履
きしたら」と伊藤さんこと坪山夫人。徒渉地点の大岩の上に古びた
登山靴が片方、置いてあった。
 雪来は、耳を藉さず、じっと渕の底の方を眺めていた。だが、ぼ
んやりと思案していたわけではなかった。僕には見えない(昔はい
ざ知らず)、上下に流動し円を描く渕の底に目を凝らしていたのだ。
「あった!」つづけて、「棒を借して!」
 長い棒を見つけて手渡すと、折から渦に乗って水中から舞い上
がってきた片われを、手品のように手繰り寄せ、あざやかに回収し
てしまった。後で聴くと、彼には水底に沈む靴の赤いマークが見え
たのだという。
 波立つ渕の水底を射抜く眼力、容易に諦めようとしない、物を大
切にする執念、水際立った、手捌きに、皆口あんぐりと感嘆したの
だった。(デハナゼクツヲシッカリトシバラナカッタノカ!)
 この水中靴拾い事件の三十分ほど前から、僕はキャプテンに替っ
て先頭に立っていた。伊藤さんから密かに注進があって、「腹部に
激痛が走り、握力がでない。ヘツリの支えの鋼鉄線も手放しそうに
なる!」というのだ。
 僕は気軽に先頭を切っていたのだが、キャプテンの不運はこの時
すでに、胸部のロッ骨がずれており、その結果、昨年に引き続いて
北鎌登攀を断念する無念となった。原因は、先程、行き詰ったヘツ
リの際、崖上に這い上がろうと強く上体をねじったためだった。お
互い、体が固くなっているのだ。
 小雨模様が濃くなるなか、貧乏沢出合いをすぎた。
(※別稿・坪山夫人の記事にあるように、この山行の直後、坪山夫人は
壮烈なる単独北鎌挑戦を果たし、以後、貧乏沢はわがパーティの命名によ
り「トシコ沢」と改称する)
 それから三十分、黄昏時に広河原となった辺りで北鎌沢出合いに
ついた。北鎌沢入口の左側の上部に三、四幕張れるテント場があっ
た。なぜかその場を離れたくなかったが、水を求めて六、七分、重
い踵を返し、広河原で野営した。五十メートル離れた地点に先客の
テントがあったが、翌早朝には跡形もなく、狐につままれたような
気がした。
 野営の席では、キャプテンが「言うまいと思っていたのですが」
と前置きして、<重大故障発生>を発表し、静かな衝撃が走った。
昨年も天候不順のため、共に北鎌断念した仲であった。
「私はムリに登ることもないから・・(一緒に撤退する)」というニュ
アンスを原田さんが述べた。相ちゃんも同意見だった。
「明日の調子を見てから決めては」と僕はいった。(キャプテンの気
持は違うぞ、と僕は感じていた。)
 野営では、暖かいカップラーメンを回して戴き、美味しかった。
ウイスキーはうまかったが、中国白酒はなぜか不味かった。北京か
              (バイカル)
ら喬喬が持参したアメリカ製の二人用簡易テントに相ちゃん、雪来
と三人で寝た。雨が少し強くテントを打ち、雨滴が裏側に滲み出た。
白酒のせいか、僕だけが顔面五十カ所も毒性の強い蚊に食われ、そ
の後一週間ちかく悩まされた。

  敗北のビバーク

 翌朝、僕を先頭に、四人は北鎌沢の中腹を快調に登っていた。水
場はその辺り迄、けっこうあった。曇りから晴れとなり、陽差しは
強くなった。ボツボツ、朝の別れの悲哀から立ち直りつつあった。
 その朝、怖れが現実となった。
「どうも痛みがとれず、むしろひどくなる気配なので、われわれは
貧乏沢経由で撤退することにします。皆さんはどうぞ、われわれの
分迄、北鎌を初志貫徹して登って下さい」
 滅多に顔にも眼にも、表情を出さない坪山キャプテンだが、今朝
も僕にはよく判らなかった。夫人は少し蒼白な顔だったかな、これ
も確かではない。
「それでは・・」という無慈悲な僕の意向に、相田、原田両氏とも素
直に同調してくれ、僕がキャプテン代行となった。
 お二人は、僕等が北鎌沢入口をグイグイ上り入る迄、いつ迄も立
ちつくして見送ってくれた。
 北鎌沢は上部が急勾配だが、危険な場所はなく、楽な登りだった。
左俣と別れ、そこから乗越しのコル迄の中間地点で、雪来が先に
登った。そんなに道草を食ったわけではないが、時間はかかったら
しい。この辺では後で聞くと、相ちゃんが前々日の下痢症状でバテ
気味だったらしい。大岩を這い上るのに、腕力のない原田さんが難
儀をしていたっけ。
 乗越のコルで休憩し昼食。いまごろキャプテン達は、貧乏沢のど
のあたりだろう。貧乏沢に届け!とばかり「ヤホー」の輪唱をした。
 いよいよ縦走路に入る。
 傾斜の強いハイ松のよじ登りは少々キツかった。腕力と体全体を
使って登った。岩稜地帯の縦走は問題なかった。しかし、時計を携
帯していなかったので、徐々に時間を食い過ぎていたことに気づか
なかった。雪来一人が先行していた。それを許して気が咎められな
いアルバイトではあった。残った三人の歩徒は、ゆったりと安全の
ペースを保っていた。途中、「キャプテン達はあの辺かな」と指差
したり、意識して急がず、独標迄は天上沢側を歩くことが多かった・
 独標の辺り、まっすぐ上部へ直登するルートは、ややクライマー
向きらしい(下山後に識る)。右の千丈沢側にオーバーハングの岩を
ヘツルようにして断崖を跨ぐ難所がある筈だが、無い。オーバーハ
ングは、とうに落ちてしまったのだ。それらしい所も難易度Bクラ
スか、何なく通過した。
 天気は晴朗、風もなく、霧もない。あの険悪孤高の北鎌尾根はど
こへ行ってしまったのか?

 後で考えると、僕等は幸運にも絶好の日和りに恵まれていたとい
える。北鎌尾根の全嶺が峻険であること言をまたない。ひとたび風
起ち、霧が出て、方向を失い、ルートを踏みまちがえたら二進も三
進もいかなくなること必至。風もなく視界が効いたこと、これに勝
る幸運があろうか。剱の山神とキャプテン御夫婦の加護のお蔭げと、
下山後今になって悟った次第。
 それにしても初ルートの故か距離感が掴めないまま、僕は盲目的
に歩いていた。
 <いつか槍の直下につくだろう・・そこを登って頂上につくだろう
・・>
 いつしか朦朧と歩いていたに違いない。午後四時を過ぎ、五時を
も回った頃合いに、僕は突如、心臓の苦しさを覚えた。それでも腰
で体を動かし動かし、一歩一歩前へと進んだ。いま思うと、なぜ
もっと早く三者で話し合わなかったのか、判らない。また例えば、
午後2時頃から、或いは独標を過ぎた辺りで、なぜトップを交替し
て全体の歩渡の調子を読み取ろうとしなかったのか。

 恐らく最初は緩慢に、徐々に徐々に、それからはきわめて急速に、
極度の体力衰耗が注意力と判断力を奪っていったのだと思う。そし
て素直なお二人が、半ば気がつきつつも、キャプテン代行のカリス
マ性と名誉に敬意を表して、黙って従いてきてくれたのだろう。
 心臓が苦しくて、僕は生まれてはじめて、かつてキャプテンがそ
うしたというように、食料を北鎌の稜線南斜面の岩上に置き去りに
した。
 たそがれ、少し薄暗くなってきた。「ビバークしましょう」とい
う相ちゃんの二度目の呼びかけがあった。
 相当うす暗くなったが、僕は透かすように残光の中でゆっくりと
路を選び、足を置く石を選び、足を運んだ。
 槍はまだか−−。千丈沢側上部のチムニーに入った。五メートル
位はあったろうか。「よいしょ、よいしょ!」と暗ヤミの中を僕は
腕力で上に登った。
「わたし上がれません!」という原田さんのこえがした。
 もうどうしようもない。「ここでビバークしましょう」「僕は上
で寝ます!」とチムニーの下へ向かって叫んだ。
 間もなく上の方から呼びかけがあった。雪来だ。「お父ーさーん、
あとすこしー、が・ん・ば・れ!」
 (いや、もうダメだよ、歩けないよ。)
「オ・レ・タ・チ・ハ・こ・こ・で・ね・む・る! あ・し・た・
の・ぼ・る! ハ・ヤ・ク・コ・ヤ・に・い・き・な・さーい!」

  UFOの光か?

 もう、すっかり暗闇だった。齢の差を感じた・・。ビバーク地の選
択は余地はなかった。転げ落ちそうな急斜面の岩の溝に寝袋に入っ
た体を横たえ、岩の下に上半身をつっ込んだ。不安定この上もなく、
三十分位ウトウトしただけで、一晩中まんじりともしなかった。
 槍ガ岳側の岩壁から水が滴る音がきこえた。−−槍水道かな、と
思ったり。風が出て、一晩中、寝袋の上部をくるんだビニールが
鳴った。その音が動物の足音に聴こえたり。もし熊が出て、寝袋の
まま一撃をくらったら情ないと不安になり、何度かアルミの水筒で
岩を叩いてみたり。
 横たわって仰ぎみる漆黒の視界は、天上沢側の稜線から約五十度
位のものであったろうか。とつぜん、北側上部の稜線上の一点がひ
どく明るくなった。一瞬思った。あれ、異星人のUFOかな?
 光はだ円に細長くなって、ぐーんと青白く伸びる。そしてぐんぐ
んと稜線上に輝きを増してくる。未だかつて、そんな光輝現象を見
たことが無い。SF好みだが、一体何だろうかと訝った。
 ものの5分もして正体が判明した。なんと、満月が天上沢側から
稜線を越して、全容を現わしたのだった。早くも満月は中天に差し
かかる。月の光が岩肌を照らし、影がより深くなる。ずうっと相田
兄・原田さんの声もない。見遥かす限り、黒い影の槍と、月と、思
惟するが故の我れ在りだった。

 朝まだきの満月は小槍の傍をすぎ、次第に黎明の薄明りの中に同
化していった。心打たれる静寂の一時だった。
 暁の陽は、遠く立山・剱へいたる蒼い山峡にたゆたう純白の雲海
を照らしたあと、赤茶のおどろおどろしい地獄尾根を浮き上らせた。
山上のパノラマは五秒、十秒の区切りで荘厳な光のページェント
(野外劇)を繰りひろげるのだった。
 朝を迎えて判ったことは、僕等は、すでに槍の直下に近い北鎌平
に到達していた。大石が累々とする北鎌平から南の千丈沢側に落ち
込んだ峻涯に、わざわざ巣造りをしたのだった。

 眠らなかったが、疲労は嘘のようにとれていた。昨夜捨てた中国
製の干肉など、食料の回収に僕は出掛けた。沽券にかかわるからだ。
下方のひどい急斜面のガラ場に迷い込み、回収できなかったりばか
りか、一時間近くも両氏を待たせてしまった。その帰りの登りは、
やはり息が切れたが、千丈沢に降り切ることも可能ということが判
明した。
 ついでに記せば、昨夕登った踏み跡をみつけられなかったという
こと。北鎌平の辺り、逆コースをとる人は僅少だろうが、きわめて
ルート探しが困難な上に、ガスでも出たらさらに困難という意味で
相当に危険度が高い。
 それからは何の造作もなく、左へ回り込み、小さなチムニーを抜
け、頂上へとび出した。待ち兼ねた雪来をまじえて乾杯をする際に、
キャプテンご夫妻が大天荘から昨夜にひきつづき、今朝も電話して
下さったことを聞いた。後で知ったのだが、貧乏沢撤退の際にご自
身たち大変な苦戦を強いられたというのに、篤い思い遣りの心の人
たちとつくづく思う。



  総 括

 今後、夜汽車の原稿は絶対悪と心得るべし。睡眠こそ肝要。僕に
は、北鎌尾根は、尾根そのものの登攀技術よりアプローチこそ問題
と思えよ。つまり高瀬川遡行は、たとえ東電の運送サービスが実現
したとしても(まだその風もないが)、体力的に相当きびしいと思
う。またこのコースは大吊橋の落下が真近かく、へつりやら、ガ
スったら・・などで熟達者でないと困難、としておこう。
 とはいえ北鎌尾根という天界の魅力は、絶景の眺望と人跡稀れな
点から、やはり第一級のもの思う。もう一度、「トシコ沢」(貧乏
沢)ルートから下り、登ってみたいと思う。   <出版社役員>
                      (元年12月14日)