わが北鎌尾根、剱岳よ おちこちの山 楽山社
おちこちの山
ある遭難騒ぎ
――平成元年秋の後立山連峰で
坪山 晃三
十月九日の午後、我々四人のパーティーは、八方尾根の雪道を唐
松岳目指して登っていた。
小屋までおよそ一時間のところまできたところ、一機のヘリコプ
ターが不帰嶮の上空を何度となく旋回していることに気がついた。
我々は「昨日の吹雪で遭難者でも出たのではないだろうか」など
と話しながら唐松の山小屋まで辿りついた。
受付けをしながら、小屋の若主人に聞かれるまゝ、前日のコース
を説明したところ、「きのう、そのコースで二人の女性が行方不明
となり、今朝から長野県警が捜索を始めている。二人について心当
りがあったらどんなことでも思い出してもらいたい」と真剣な表情
で懇請された。
尾根筋で見かけたヘリコプターも、やはり、この二人の捜索のた
めのものだったのである。
若主人の話によると、二人の女性は七日の夜、白馬の村営小屋に
泊り、翌日のコースを「白馬三山〜不帰嶮〜唐松山荘」と届け、八
日の朝、小屋を出たまゝ消息を絶ってしまっているというのだ。
そこで、参考までに今回の我々の山行日程と当時の状況について
振り返ってみることにしたい。
先ず、初日の十月七日は早朝から、半ば氷りついた大雪渓を登っ
て白馬村営小屋に泊り、翌八日は六時半頃小屋を出発して、不帰嶮
から唐松山荘へと向った。
この日はかなり冷えていたが、夜明け前から天気がよく、尾根道
を歩き始めた頃は剱岳など立山連峰の絶景も眺められ、一日中好天
に恵まれそうな気配が感じられた。
ところが、杓子岳を過ぎて白馬鑓にさしかかったころから、全面
ガスに覆われ、細かい雪も舞いはじめてきた。
私は朝の天気からみて、「この雪も一時的なもので心配はないだ
ろう」と判断をし、何ら気にとめることなく、不帰嶮に向ってパー
ティーの歩を進めていた。
天狗小屋を通過したころには、雪もかなり強くなり、五センチ程
積っていたが、そのまゝ進んで天狗の大下りに到着した。
そこは、後立山縦走コースの難所といわれる不帰嶮の入口に当り、
鎖場が連続しているところである。
わがパーティーは、その鎖場を三つほど下ったが、これらの鎖は
雪で氷りつき、素手で握っても滑ってしまうような状態であった。
そのうえ、足場もほゞ全面雪に覆われ、十分な確保が困難となって
いた。
その場所の少し先には、さらに厳しいスラブ状の鎖場があると聞
いていたため、私もここに至ってようやく、「これ以上進むのは危
険ではないか」と思うようになった。
こんなことを考えながら、最後尾者の鎖場通過を見守っていると、
前方から四人のパーティーがこちらに向って登ってきた。
よく見るとその四人は、前夜、同じ村営小屋に泊ったメンバーで
あった。
このパーティーは、前方の鎖場
の下降が危険と判断して引き返し
てきたのである。
四人の話を聞くに及び、私の迷
いは益々深まり、“行くか、戻る
か”メンバーの意見も聞いた上、
最終的にわがパーティーも撤退す
ることを決断した。
それからは、吹雪となった尾根
筋で「一寸頑張れば予定通り行け
たのではないか」「いや、この選
択が正解であったはず」等との思
いを交錯させつつ、約七時間をか
け、鑓温泉を経て猿倉小屋まで下
りきった。
その日は白馬駅に近い民宿に泊
り、翌九日には帰京するという予
定で総括の酒宴も済ませて床についた。
ところが、翌九日は前日と打って変った晴天で、民宿からも後立
山の連山が一望できる絶好の登山日和となった。
我々は「このまゝ帰るのは勿体ない」と考え、八方尾根から唐松
岳へと敗者復活戦を試みることにした。
話を再び遭難騒ぎに戻すと、冒頭に記したヘリコプターの一件も、
この日の八方尾根登高中のことであった。
このヘリコプターは、長野県警や唐松小屋が二人の行方不明者に
ついて全く情報をもっていなかったため、彼女らの予定コース中、
最も危険度の高い不帰嶮を中心に捜索していたというのである。
そこで、彼女らと同じコースを歩いたであろうわがパーティーの
出番となったわけである。
当初、我々はこの二人の女性について全く思い出せずにいたが、
間もなく、メンバーの一人・川澄君が「その二人は朝食の時、我々
の斜め前にいた人達ですよ」と口火を切った。
その言葉で私にも記憶が甦り、確かに二人は前日の夕食の時も、
翌日の朝食の時も見かけた女性で、年令的にも体格容貌の面からも
若主人の話と一致していた。
小屋の若主人とは、先ず、二人が行方不明になった場所を絞るこ
とから話をはじめた。
我々四人が記憶を辿った結果、村営小屋を出た六時三十五分の時
点では、まだ、その女性は確実に小屋に残っていたことを思い出し
た。
また、天狗の大下りから、引き返したあと、鑓温泉に下る分岐点
に至るまでの間、二人とは会っていないこともはっきりした。
従って、彼女らが予定通り唐松へ向ったとすれば、行方不明に
なった場所は村営小屋から鑓温泉への分岐点までの間か、あるいは、
鑓温泉に下るコース上の可能性が強いとの結論が出された。
この結論は直ちに若主人から長野県警に連絡され、県警では不帰
嶮の捜索を打ち切って、明十日は早朝から鑓温泉のルートを捜索す
るという方針を決めたようである。
このコース上には、間違い易い場所も二ヶ所程あって、これまで
も幾つかの遭難事故が起きている。
丁度この頃、「立山の室堂で中高年のパーティーの六人が凍死し
た」という情報が伝えられ、宿泊者一同に緊張感がみなぎった。
この情報は間もなく、「遭難地点は真砂岳付近」と訂正されたが、
後立山の遭難騒ぎに巻き込まれていた我々には、ことさら、悲痛で
複雑な思いを抱かせた。
若主人との詰めはさらに続けられたが、ここでまた一つの事実が
浮かんできた。
それは、我々が村営小屋を出発してから杓子岳の頂上付近に来る
までの間、確か時間にして五〜六分あとを二人のパーティーが来て
いたことである。
しかし、その二人は白馬鑓を過ぎる頃姿が見えなくなっていたた
め、「少し遅いな、どうしたんだろう」などと話し合っていたこと
もわかってきた。
後続した二人が行方不明者と一致するという確証はなかったが、
この事実も含め、「消息を絶った女性は鑓温泉ルートに下った可能
性が益々強い」という線で固まった。
その後は、この二人の服装や雨衣の色などを思い出して若主人か
ら県警に連絡され、一旦、お役ご免となった。
その後、我々四人は夜半まで、いろゝゝと思いをめぐらせ、興奮
さめやらずといった状態を続けていた。
ところが、翌十日の朝食時、若主人から「行方不明の二人は予定
コースと逆方向の蓮華温泉に無事に下っていた」と告げられた。
私は、一瞬、キツネにつまゝれたような感じになったが、無事と
聞いて大きく胸を撫で下し、同時に「ゆうべの騒ぎは一体何だった
のだろうか」などと思ったりした。
この二人の女性がどのような経過を経て蓮華温泉まで下ったのか
分らないが、私は「後続した二人が、吹雪のため、途中から引き返
し、比較的安全なコースを辿れる蓮華温泉に下ったのであろう」と
判断してこの遭難騒ぎに終止符を打った。
どうやらこの騒ぎは、立山での遭難報道に触発された留守宅の過
剰反応に原因があったようだ。
いずれにしても、このたびは吹雪による天狗の大下りからの撤退、
八方尾根からの再挑戦、そしてこの遭難騒ぎなど、まことに慌しく、
また、変化に富む山行きであった。